大伴家持の「近代的」孤独

大伴家持は私が古代人の中で初めて興味を持った人物だ。
家持のことを思い出したのは、最近植物を描いていて、何か言葉を添えてみたい、と思うようになったからだ。
古本屋で「万葉の花」という本を買ったせいもある。

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十代の終わり頃に何気なく万葉集をパラパラと見ていたときに、大伴家持の、かの有名な歌が目にとまった。

「我がやどの いささ群竹(むらたけ) 吹く風の 音のかそけき この夕(ゆふべ)かも」

この歌がどことなく漂わせている寂寥感、実存的不安を掻き立てるようなザワザワとする音調に、当時好きで読んでいた萩原朔太郎やボードレール、中原中也などの詩が放っていた孤独の香りに似たものを感じとったのだ。
それは群衆の中の孤独であり、都会人の孤独であり、学校生活に馴染めなかった私自身の孤独でもあった。

萩原朔太郎は、『群衆の中を求めて歩く』の中で

「―――私のかなしい憂鬱をつつんでゐる ひとつのおほきな地上の日影

ただよふ無心の浪のながれ

ああ どこまでも どこまでも この群衆の浪の中をもまれて行きたい――」

と書いている。

この詩の中では群衆は「楽しく」、わたしは「悲しい」と描写されている。群衆にまぎれることでかえって個人の孤独が強調される。萩原の詩はどこか痛みをともなう。
ボードレールは「孤独な散歩者(Le promeneur solitaire)」で、ヴェルレーヌは「秋の日のヴィオロンのため息」を歌い、中也は「汚れっちまった悲しみ」を歌い、私は時代を超えたメランコリーのアンサンブルを楽しんでいた。

家持の話に戻ろう。

家持がこの歌を詠んだのは753年。1200年以上も前の人に共感するなんて不思議な感覚だな、と思ったのを覚えている。昔の人は遠いけど近いのだと。
私が昔知っていたのはこの竹の歌だけだったが、この歌を含む3つの歌が大伴家持の「絶唱三首」として特に有名であるということを最近知った。

三つの歌は天平勝宝5年(753年)の223日と25日に詠まれた。

二月二十三日に、興に依りて作る歌二首

春の野に 霞たなびきうら悲し この夕影に うぐひす鳴くも (巻十九・四二九〇)

我がやどの いささ群竹吹く風の 音のかそけき この夕かも (巻十九・四二九一)

二月二十五日に作る歌一首

うらうらに 照れる春日にひばり上がり 心悲しも ひとりし思へば (巻十九・四二九二)

大意は、それぞれ

「春の野に霞がたなびいてもの悲しいことよ。この夕方の光の中で鶯が鳴いている。」

「私の家の、まばらな竹林の中を吹く風の音が、かすかに聞こえるこの夕暮れよ。」

「うららかな春の日に、ひばりが空に舞い上がり、私の心は悲しく沈む。一人もの思いをしていれば。」

となるだろう。

三首とも現代にも通じる「孤独感」「さみしさ」「悲しみ」を感じさせる。

その感覚は単純ではなく重層的で、どこか甘美さにも似たものを感じ取った。なんとなく、悦に入っているような、、孤独ということをそんなに悲観もしていない、むしろ感傷に浸る自分に酔っているような、孤独という陶酔、それを粋に表現してる、、そんな風に感じて私はこの歌が好きになったのだろう。(ボードレールの影響もありそうだ。)家持が置かれていた当時の環境を考慮すると、こういう解釈は間違いかもしれないが、、。

当時読んだ解説では、家持の持つ「近代的」感性が強調されていたように思う。現代にも通じる感性をこの歌はもっているからこそ今でも人気のある歌なのだと。
あらためて調べると、家持の歌に「近代的」という表現を用いたのは折口信夫だという。
私は折口信夫が好きなので「そうなのか!さすが~折口!」とパソコンの画面を見ながらテンションがあがった。

この三首について、窪田空穂は、家持の「漠然と持っている孤独感」を詠んだものであり、「人間の本能として持つ孤独感」を現しているとする。
そして折口信夫は「歌は、感興の鋭い、近代的な感性を備えたものである」と評し、それ以来この歌には「近代的」という表現がついてまわるようになったという。

私も家持の「近代的」感性に、その孤独に共感し、驚いた。
ここで少し気を付けたいのが、現代の方が昔より進んでいる、という態度をとることの傲慢さについてだ。
自分と同じような感覚を昔の書物から発見するのは純粋に驚きであるし、つい、昔の人もこんなに進んでいたのか、と感心したりする。
でも昔にしては「進んでいた」とか、今の時代と共通する感性を「発見」したという態度はちょっとちがうかもしれない。むしろ、我々が古代の感性にようやく追いついたのでは?とも思う。
「近代的」という響きには、進歩史観的な雰囲気が漂うので、そこのところだけは気を付けたい。

どうも私には昔より現代のほうが進んでいるとは思えない。科学技術は発達したが、身体感覚や鋭敏な感性はむしろどんどん退化しているのではないかとも思う。僅かに残ったひとかけらの感性が、古代の感覚と共鳴しているのではないか。。

こんなめまぐるしい現代社会では、木々のざわめきに何かを感じるなど、今風の感覚ではなくむしろ「古代的」感覚かもしれない。スマホを持ち続けた指がしびれる感覚に時々ため息が出る。電気にも感傷はあるだろうか。エレクトリックメランコリア。

大人になって社会の中でどうにかやっていき、人間関係もうまくいってる、、でも時折、追憶の中に生い茂った家持の竹を揺らす風が吹き、足元が覚束なくなる。雨の日に、電車の中で、夕暮れの喫茶店で。
そんなときは過去も未来も溶け合った、甘い孤独の中でただ漂っていたい。波間を揺蕩う小舟のごとく。

2021.5.17
内海 恵

 

2021-05-17 | Posted in コラムNo Comments » 

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