薔薇とナイチンゲール①

薔薇とナイチンゲール①

演奏写真演奏写真3月14日チラシ

 

 

 

 

2021年3月14日(日)、吹田市文化会館メイシアター小ホールにて、ペルシャ音楽とダンスのコンサートでした。

第一部はペルシャンフォークダンス。イランの地方ごとの踊りをグループ、ソロで披露。メヌシュさん主宰のカージダンス、ヌーシンさんたちのケルマンジーの五穀豊穣のダンス、Ayakoさん達のバンダリのダンス、どれも素敵でした。
私達デルナバは、第2部でフォークソングを7曲、歌、サントゥール、トンバク、ダフのアンサンブルで演奏。

イランのノールーズ(新年)が近いので、春の訪れを祝う歌を中心に選曲。
多くのお客さんに来ていただき、とても嬉しかったです。

コンサートの様子は皆さんが沢山SNS上にアップしてくださったので、ここでは写真だけ載せておきます。


さて、以下に2つ、今回演奏したフォークソングの歌詞の紹介をしたいと思う。
どちらもイランでは非常に有名な歌だ。(訳は意訳)

Gole Pamchal

プリムローズ(サクラソウ)

ああプリムローズ、プリムローズ

春になると咲き誇る

春は労働の始まる季節

花は咲き、ナイチンゲールが木にとまっている

さあ楽しい仕事の時間だ

歌を歌おう

種をまこう

働く時がきた

歌を歌おう

種をまこう

春がやってきたのだから

愛しい人よ、あなたは私の魂

見晴らしの良い夜にあなたに会いに行こう

愛しい人よ、あなたは私の魂

私の人生をあなたに、あなたの素晴らしい瞳に捧げよう

歌を歌おう

種をまこう

働く時がきた

歌を歌おう

種をまこう

春がやってきたのだから

プリムローズは春の花。春の訪れを告げる花だ。
ナイチンゲール(bulbul)も春を告げる鳥であり、恋をする者の象徴でもある。
夜行性であるため、「見晴らしのよい夜」に愛しい人のもとへ飛ぶのだろう。
花、ここではプリムローズが愛しい人の象徴であろう。花に恋するナイチンゲールという古くからあるテーマを思わせる。

Jane Maryamsweet maryam)
愛しいマルヤム

ああ、私の赤と白のバラよ、あなたはいつ来るのですか?

私のスミレ、ヤナギの葉っぱ、、あなたはいつ来るのですか?

あなたは「花が咲くころに私は来るでしょう」と言ったけど、

もうこの世界の花は皆咲き終わってしまった、、

あなたはいつ来るのですか。

ああ愛しいマルヤム、目を開けて、私を呼んで

もう夜明けだ、太陽は昇り、外に出る時間だ

愛しいマルヤムよ

ああ愛しいマルヤム、目を開けて、私を呼んで

共に出かけよう、家を出て、さあ一緒に、

在りし日々を思い出そう

ああ愛しいマルヤムよ

再び朝が来た、私は目覚めたままだ

眠ることが出来て、夢であなたに会えたなら

悲しみが少しずつ心に芽生えて、生い茂るんだ

この悲しみをどうしたらいいのか

ああ愛しいマルヤムよ

さあ来て、収穫の季節が来たんだよ、

あなたは私のものだ、置いていかないで

一緒に働こう、小麦を収穫するんだ

来て、来てください、愛しいマルヤム、マルヤム、、

・「薔薇(gole)とナイチンゲール(bulbul)」について

イランの詩を読んでいると、花鳥風月、美しい自然描写に心動かされるが、その伝統はフォークソングの中にも息づいている。花と鳥、、特に薔薇とナイチンゲールの組み合わせは特別な印象をもって音楽や詩の中から浮かび上がってくる。goleはペルシャ語で「花」だが、多くの場合goleは「薔薇」を意味する。(サアディの「薔薇園(ゴレスターン)」にもgoleが入っている。)ナイチンゲールはペルシャ語でbulbul、日本語では夜鶯と言ったりする。

ところで、ペルシャの伝説にこういう話があるらしい。

白い薔薇に恋をしたブルブルは、棘に身体を押し付けて死ぬまで歌い、白い薔薇を赤く染めた

イギリスの作家、オスカー・ワイルド(1854-1900)は、この伝説を思わせる14世紀の詩人ハーフェズの詩からインスピレーションを受け、童話「ナイチンゲールと薔薇」を書いたと言われている。

ワイルドの童話のクライマックスシーンはこんな風に描写される。

――そして空に月が輝いたとき、ナイチンゲールは薔薇の木の所に飛んで行きました。そして刺に胸を押し当てたのでした。一晩中ナイチンゲールは棘に胸を押し当てたまま歌いました。すると、冷たい結晶のような月は、かがみこんで耳を傾けました。一晩中ナイチンゲールは歌いました。すると棘はだんだん深く胸に刺さっていきました。そして生き血は、しだいにその身体から失われていくのでした。

ハーフェズの詩は17世紀後半からヨーロッパにラテン語の訳を通して紹介されていた。後にハンマー・プルクシュタルの翻訳(18121813年)などにより、ヨーロッパ諸国に紹介され一躍して世界文学の最高位に置かれるに至ったのだ。ゲーテも彼の詩に感銘を受け『西東詩集』を生んだ。

ワイルドが影響を受けたとされるハーフェズの詩があるので以下に紹介する。

抒情詩(ガザル)第130

明け方、私が花園を歩いていたとき、

そこには薔薇が咲いていた。

すると、突然谷間より、

ブルブルの歌が聞こえた。

ああ、彼は薔薇を愛した。私のように、

彼もまた、愛の苦悶に落ちたのだ。

彼が草原に身を投げ出すと、

彼の嘆きの迸り。

悲しみと、沈思の歩みで

私はその花床を彷徨った。

薔薇とブルブルの愛の、

悲劇の話を、思い浮かべて。

その薔薇は美しかったと言いましょう。

そのブルブルは薔薇を愛した。

彼は薔薇なしでは、生きられません、

彼女の優しい言葉はなかったが。

聞いた時、不思議と、私の心を動かした、

その情熱の鳥の歌声は。

その歌は、私の心を、激しく揺さぶり、

私には、喉からの苦悩の歌は、堪えがたかった。

美しさに満ち溢れた、芳香の薔薇

その花園には、さわやかな風が吹く。

だが、花の蕾は開きはしない、

薔薇の棘の傷無くしては。

おおハーフェズよ、どんな慰めも思うな、

運命の女神を、手に入れようなんて。

運命の女神は酷い仕打ちを秘めている、

それは善意の震えでは、決してない。

(黒柳恒男訳)

夜に鳴くナイチンゲールは非常に詩情をかきたてる。人々はこの鳴き声を聞くとき、叶わぬ恋に散ったナイチンゲールの悲劇に、自らの境遇を重ねることもあっただろうか。

私は薔薇とナイチンゲールが詩や歌詞に出てくるのを見つけるたびに、棘に刺されたナイチンゲールの鮮烈なイメージが浮かび上がるようになってしまった。それは赤という強烈な色彩も伴う。

これは一種の共感覚だろう。

「薔薇とナイチンゲール」という組み合わせに引き込まれた私は、この組み合わせが出てくる様々な音楽を調べ始めた。メインはイラン古典音楽で、ハーフェズやルーミーの詩で薔薇とナイチンゲールが朗唱される部分を発見する度に胸が高鳴った。

多くはマーフール旋法の中でこの組み合わせが見られることも分かった。熟練の古典音楽の奏者たちは、旋律と詩のイメージも密接に結びついているのだ。(私も早くそういう次元に達したい。)

イメージは連鎖する。薔薇とナイチンゲールに愛する人と恋する者を見、鳴き声に棘の痛み、血、悲恋を思う。詩はさらに深い構造になっている。恋愛詩としても読めるが、その奥に通奏低音のようにスーフィズムの精神が流れていることを忘れてはならないだろう。黒柳恒男の言うように「ハーフィズの抒情詩は単に地上的な恋愛詩たるにとどまるものではなく、その内面には真の恋人たる神に対する切々たる愛、思慕の情が秘められている。」ということは詩を読むときに頭に置いておきたい。

次の5月22日の演奏では、この「薔薇とナイチンゲール」をメインテーマにイラン古典音楽、民謡、そして西洋中世のカンティガやロマン派時代、、の音楽をサントゥールとトンバクのデュオで演奏したいと思う。(西洋音楽にも薔薇、ナイチンゲールは多く表れる。ペルシャのイメージとは根本的に異なるが、悲恋のイメージなど共通しているところもある。)ゆくゆくは弾き語りもしたいが、、、まだまだ先になりそうだ。

(内海 恵)

参考文献

・ハーフィズ『ハーフィズ詩集』 (黒柳恒男訳)

・五島正夫『ハーフィズの「ナイチンゲールと薔薇」への影響』

2021-04-29 | Posted in コンサート, ブログNo Comments » 

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